2011年8月21日日曜日

東北被災地ボランティア 5(最終回)

五日目
通常、帰る日は10時頃に仙台を出発するのですが、私達は東仙台教会の子供キャンプの手伝いへ行っているユースチームをピックアップする必要があり、キャンプの終了予定時間が13:30-14:00なので、そこから仙台を出発することとなる。
と言うことで、帰宅が遅くなり、疲れる運転と予測し、少しのんびりさせていただくこととした。
ボランティア作業へ出かけていく他のチームを見送った後、山田牧師と二台の自動車でユースチームのいる秋保温泉郷へ向かった。

ここまで来て温泉に入らない手はないということで、日帰り温泉施設へ。
施設的には古かったが、露天風呂が広く、自然もいっぱいで、とても気持ちのよい温泉でした。
山田牧師とは学生の頃に二人で一緒にスキーに行った仲で、スキー帰りには必ず温泉に入っていました。そんな頃を一緒に温泉に入りながら懐かしく思い出しました。

昼食を食べて土産物を買ってから、ユースチームを迎えに行きました。
子供キャンプの手伝いに参加直前まで不安を言っていた者も、第一声は「楽しかった」だったので安心しました。
しかし、メンバー6名ともかなり疲れた様子。どうやら、子供たちが元気すぎたこと、夜は遅くまで寝なかったので睡眠不足だったことにより、メンバーはお疲れ。
子供たちを見送ったあとに、私たちも秋保温泉郷を出発しました。
ユースチームはみんなお疲れで爆睡状態でした。

と、自動車である程度走ったら突然、 携帯の地震警報が鳴り出しました。50cmの津波警報も出たとのこと。
そのためか宮城県内は高速道路が混んでいました。
羽生SAで夕食と最後の祈りをし、自動車二台はおのおのの方向へ。
私が帰宅したのは21時頃でした。

今回のボランティアの前に思っていたことは、
①ひたすら謙虚に働くこと。 
②誰かが行わなくてはいけないこと行うこと。 
ということでした。だから、別に被災地に行かなくてもよいと思っていましたし、被災者と接触することにも何も恐れはありませんでした。

全てを終えて私自身が思ったことは、
①実際に被災地に行き色々な物を見て人とも接触し複雑になりつつある気持ちがあったが、こんな時こそ「神様の恵みを受け、それを感謝として返す」という単純な思いが必要だと気がついたこと。 
②被災地に行けて良かった。実際に見て触れたことにより、この現状を多くの人に伝えられ、自分自身も深く被災地・人のために祈ることが出来るようになったこと。 
③自分自身の働きは砂粒程度のことかもしれないが、砂粒も積まなくては山にならないことと、そんな小さな働きから想像以上の恵みを得、感謝の気持ちが湧き出たこと。 
若林・宮城野区周辺にて

最後に、
勤め先が休みをくれるならば、私は何回でも被災地に行って自分の出来る働きをしたいと思っています。

東北被災地ボランティア 4

四日目
この日は本来、ホーリネスチームが帰る日です。
しかし、ユースチームが参加している東仙台教会の子供キャンプが翌日までなので、5名のみが帰り、私とチームリーダーの山田牧師は、この日は他のチームと一緒に前日の畑で働く予定でした。
朝食風景 キャンプのキッチンから食事が運ばれてきます。

この日はあいにくの天気で、畑のほうから作業中止の連絡がありました。
さてと、と思っていたらアメリカ人3名とドイツ人1名が宮城県北部の大きな被害を受けた被災地を見たいというので、ガイドを山田牧師、ドライバーを私、通訳をCRASHからと言うことで、計7名で出かけることとなった。

この日に東京へ帰る5名を見送った後に、仙台松島道路、三陸自動車道を使って南三陸町と気仙沼市を見て回った。

南三陸町はリアス式海岸の窪みに集落があり、その集落一つ一つが津波で流され壊滅状態になっていた。
普通の民家は全て流されて皆無、鉄筋コンクリートの大き目の建物のみ残っているが窓は割れゴーストタウンの様相でした。
線路も寸断され、駅舎かなと思ったところは線路の高架橋の上に流された家が乗っている姿でした。
仙台の海沿いもすごかったですが、天候もありますが異様な風景でした。

南三陸町から気仙沼市へ行きました。
ここには、震災のときにTVで映像が流れていた気仙沼港の姿がありました。
海に近い建物は流されているかあっても使用不能の状態です。
南三陸町の田舎町とはちょっと違った風景でした。
気仙沼市街 ドライバーだったので写真はこれのみ
気仙沼からCRASH JAPAN 一ノ関ベースによりましたが、ここはスタッフやボランティアが少なく、人手がいれば出来ることは多くあると言ううったえを聞いてきました。
確かに、被害の大きかった気仙沼市、陸前高田市、南三陸町には近いので、どうにかもっと用いてあげたいと思いました。

帰りは、東北自動車道をひたすら帰ってきました。
本来ならば労働をしたいと思っていましたが、この見学も神様が与えてくださった時間だと思いました。
この地のために更に心を尽くして祈りたいと思いました。

(5へ つづく)

2011年8月20日土曜日

東北被災地ボランティア 3

三日目
この日、ホーリネスチームはかねてから予定していたとおり、ユースチームは東仙台教会の子供のキャンプのお手伝いのために秋保(あきう)温泉へ行き、私を含めたそれ以外のメンバーは仙台市東六郷小学校近くの田んぼのヘドロ除去作業です。
現場に行くまで仙台市の海沿いを走ったが、津波により倒壊した家屋や倒れかけた鉄筋コンクリートの建物、傾いた電信柱たちを見ることがたできた。

機械作業でヘドロを取っている田んぼもありますが、機械だとどうしてもヘドロが泥に多く混じってしまいヘドロに含まれる重金属により米を作ることを行政に禁じられる場合もあり、大変だが手作業で除去することがよいのです。
田んぼの土の上に海の砂があり、その上に津波により海底より巻き上げられたヘドロが水が引くときに沈殿して残っている。五ヶ月もたっているので、重くひび割れたブロック上になっている。
そのブロックをスコップなどの道具を使って地面から引き剥がし、山にしていく。
 畑やその端っこには何台かの車があり(上記画像を見てください)、何でこんなところに自動車がと思ったのだが、津波に流されて来て、持ち主が引き取りにこないままになっている自動車であった。車内は泥だらけになっていた。
←この場所に津波が来た翌々日の映像


田んぼなので日陰がなく暑かったが、睡眠不足ではなかったので前日よりは調子がよかった。昼もおにぎりを二個食べることが出来た。
それでも、相当の暑さの中で体を動かしているので、途中でかなりの量の水分を摂取しているがどんどん汗で出て行き、ベースキャンプ出発前にトイレに行ってからベースキャンプに戻ってくるまで一度もトイレに行かなかった。

作業が終了したときに、田んぼの所有者である農家の人が、ヘドロ除去を最初にした畑から取れたというキュウリをベースキャンプに持っていって欲しいと渡してくれた。
話を聞くと、とてもひどい状態だったので、今年は作物が採れないかもと半ばあきらめていたが、どうにか採れるようになったので感謝の気持ちをこめてと言うことだった。

帰りに、津波で建物が流されてしまったが震災3.11の翌々日の聖日に野外礼拝が行われたシーサイド・バイブル・チャペルの跡地を見学をすることが出来た。
 まわりの家屋もほほぼ全て流され、土台のみを残している。
少し高い土台に自動車が逆さになって乗っている姿も見えた。

(4へ つづく)

東北被災地ボランティア 2

さて、二日目。
ボランティア作業本番です。
本日の予定が告げられ、私たちは東松島市東名(とうな)地区のとある家で、津波により入ったヘドロと砂を除去する作業である。
家の周りに溜まったヘドロを取り除き土嚢に入れる作業と


家の中に溜まったヘドロと砂を高圧洗浄機で流し、それをすくっていく作業に午前と午後の二組に分かれて作業をした。
私は午前中外の仕事となったが、夜あまり眠れずに寝不足と、暑さと、普段ディスクワークしかしないことにより、肉体的にかなり大変だった。途中で水分補給&小休憩を何回かしてどうにか昼まで持ちこたえたが、昼食はおにぎりを一つやっと食べれるくらいだった。
しかし、午後の家の中の作業では、陽が当らないことと、水仕事なので肉体的には楽になり、終了時間まで仕事をすることが出来た。
この家の周りを見ると、この家のように新しくパネルを使った家は概観はきれいに残っているが、一昔前の家は柱が倒れ使用できそうもないばかりだった。また、作業した家の後ろには鉄道が走っているのだが、途中でゆがみ使用不能となっていた。

 この日の作業は東松島ボランティアセンターから割り振られた作業で、東仙台教会がメインの仕事となり、私たちも東仙台教会のベストを着て作業をした。
また、翌日からホーリネス・ユースチームが東仙台教会の子供キャンプのお手伝いをするので、キャンプリーダーともご挨拶させていただきました。

ベースキャンプのお風呂が小さいために、毎日、仙台周辺にいくつもある温泉かスーパー銭湯へ出かける。この日も「夢実の国(ゆめみのくに)」温泉へ行ったが、ここは露天風呂が広くなかなか気持ちがよい。

夜は、ユースチームが次の日からの子供キャンプのミーティング。
津波で親を失った子も多く参加するので、とにかく夏休みに思う存分楽しめるようにしたいらしい。
みんなでアイディアを出し合い夜遅くまでミーティングをしていた。
(3へ つづく)

東北被災地ボランティア 1

8/15~19で東北へボランティアへ行ってきました。

今回は、私の通う教会が属する日本ホーリネス教団を通して、CRASH JAPANというキリスト教団体としての被災地ボランティアに参加してきました。
サイトを見ていただければ分かりますが、CRASH JAPANは東北の震災より前に、2004年の中越地震を機にジョナサン・ウィルソンによって設立されました。
キリスト教の宗派を超えた(超教派といいます) 活動でありますが、多くのチーム(4名以上のチームでないと活動内容が限定されてしまいます)が「自分たちはこうしたい」というプランを立てて参加します。それはそれで、その人たちにしか出来ないことをやっていただけるので素晴らしいのですが、実はそうなるとCRASHがコーディネイトしている作業が進まないこととなります。
そこで、ホーリネスチームはとにかく毎週月~木曜日に人を送り込み、CRASHのコーディネートした作業を行います。外国人チームの多くもそのようです。



但し、今回のホーリネスチーム(13名)は若手(ユース)が半分いることと、東仙台教会が主催する子供たちのキャンプがあり人手を必要していたことの偶然のマッチングにより、ユースと一部は金曜日まで活動をすることとなりました。

8/15
一日目は関東各地から集合して10:30に自動車3台で出発し、CRASH JAPAN 仙台ベースに向かいました。
まだお盆休みなので高速道路も混雑しており、全員で昼食をとることも大変でした。
到着も普段よりは遅れて17:30頃にCRASH JAPAN 仙台ベースのあるキリスト教森郷キャンプ場に到着しました。
単なるボランティアと違い、作業説明・注意をするだけでなく、最初のオリエンテーションでは 参加の気持ち(期待・不安など)を聞かれ参加者同士とCRASHで心のシェアをしました。

移動時間ももったいないくらいなのですが、実際の作業は二日目からとなります。  (2へ、つづく)

2011年8月3日水曜日

音の記憶

先日の日曜日、ある合唱曲を練習していた。
この曲のある部分の音がとりにくい。

実はこの曲、今練習しているのはオリジナルを半音下げて転調して歌っている。
転調する前は、問題なく歌えたのになぜ?

音のとりにくい箇所は、オリジナルはファ・ファ ミ・ミ・ミであり、転調されるとミ・ミ レ♯・レ♯・レ♯だ。
ミ・ミはフレーズの終わりで、レ♯のところから新しいフレーズが始まるポイントとなる箇所で、このレ♯が音程がとりにくいのだ。
どうしてもミかミに近い中途半端な音となってしまいがち。

原因はおそらく、ポイントとなるだけあって、オリジナルのときに少々力入れて覚えた、固定音ミとして覚えたことにある。
 私は絶対音持っていないのだが、どうも「音の記憶」が残ってしまっているようなのである。

よく、転調されても分からず「あれ? 今日はトップの音が出にくいな。苦しいな。」と言っている人がいるが、私は転調されるとすごい違和感を持ってしまいます。

「音の記憶」は邪魔者か、それとも宝になるか。

北九州市消防音楽隊第50回定期演奏会 第3部

3月のはじめ次女の勤務する北九州市消防音楽隊の記念すべき第50回の定期演奏会へ行ってきました。 部分的にYouTubeにUPしていました。 第3部